小説『睡蓮』第一回

      「はじまりの声」

「解体屋です」
 縁側に仁王立ちし、春にしては遠くまで澄みきっている空を長いあいだ見上げていた真澄は、その一瞬、大空から透明で巨大なハンマーが振りおろされるのを視た気がした。
 若く大柄な解体屋は、壊れた柵を割るようにして入って来ると、花のとうに終わった杏の木を見上げた。
「ずいぶん大きな木だなぁ……。僕、斉木さんに言われて来ました。聞いていますか?」
 真澄は不安定にゆらぐ濡れ縁を素足で踏みながらたずねた。
「はい。その木も切るの?」
「切るでしょう」男は木を見上げながら曖昧なふうに言った。
「家は、大きなハンマーかなにかで壊すのかしら?」
「ははは」
 男が柔らかく朗らかな声で笑った。
「壊すのにもずいぶんお金がかかるんでしょう? 大家さんも大変ね」
 笑われながら真澄はそう言い足した。
「ここで、そうだなあ、七十万くらいでしょう」
 明解な答えはそれが何であっても真澄を幸福にする。
「あらそんなもの? 二十年も住んだのに」
 まだ若い解体屋は、住んだ年数と解体費は無関係だと答えようとし、それからなんと答えれば良いのかわからなくなって真澄を見た。

        *

 真澄が二十代の終わりに結婚をし、それ以降ぼんやりと住み続けたこの小さな家は、三十年ほど前に開発された新興住宅地の一角にある。
 あたり一帯の家の寿命と共に、当初の住人の寿命も徐々に尽きつつあり、どういう事情でか当時まだ十分に新しかったこの家を貸し出したオーナーも、つい先年、代がわりした。
 朽ちかけた親の家はそのままに、若いオーナーは都心の真新しいマンションで暮らしているという。
 二か月前、雨漏りがはじまり、真澄が屋根の修理を頼むと、断られた。
 やがて不動産屋があらわれ、格安の物件を次々と真澄に紹介しはじめた。
 ここを更地にして売るのだと言う。
 真澄は諦め、すんなりと承諾した。

 解体屋が仕事をすすめている間、真澄は男の一挙手一投足を濡れ縁にしゃがみこんでみつめつづけた。
 真澄は何かが終わりつつある時間が好きだ。
 始まりのときに其処にある緊張感や、やがて失われてゆくはずの時間の、その豊かさがかえって煩わしいのかもしれない。
 あるいは学生時代、始まりを報せるチャイムが爆音のように聞こえた、あのどうでもいいような、けれど切実だった体験からきているのかもしれない。
 そう、始まりと言って具体的に思いつく光景は、あの朝の教室のドアだと、真澄は背を丸め、膝を抱える。
 遠い遠い記憶の奥の教室のドアの前で、固く凍りついている少女がいる。
 恐くて中へ入れないのだ。
 皆にとっては何でもない物音、同じ場所に長時間すわっていなければならないこと、教師の口から時折飛び出す叱咤、選択の余地のない授業、そんな些細なことに自分が十分に耐えられないという、本人にとっても不本意な事実を、無神経な教師によってあからさまに指摘され、皆の前に曝されてしまうという馬鹿馬鹿しい不幸。
 何故自分だけがまるで砂漠の真ん中で遭難しているようなのかと思い続けるうち、可哀想にあの少女の髪は、ストレスで薄く抜け落ちてしまったのだった。
 そう、あれはなんと滑稽なことだったろう。
 あの少女はなんと馬鹿な子だったろうか。
 あんな思いまでして行かなくてはならない場所など、この世の何処にもありはしないのに。

 そんな前世のことのように遠い記憶を思いがけず手繰りなおしている真澄の目の中で、古く小さな家は解体屋によってくまなく計りつくされていった。
 やがて、すっかり仕事を終えると解体屋は巻き尺を巻き戻しながらよく通る声で言った。
「全部終わりました。どうもお邪魔しました」
 真澄はその声ののびやかさにせいせいしながら応えた。
「ご苦労さま。お邪魔じゃなかったわ。またいつでも、いらしていいわ」
 彼女の言葉に苦笑いを浮かべながら、解体屋は礼儀正しくおじぎをした。

 玄関のほうで車のエンジン音がし、その音が遠ざかってゆく。
 その消えてゆく音を聞きながら、真澄は自分の手がどこか遠いところへ向けてすっと差し出されるのを見た。
 何故そうしたのだろう、手を振りたかったのだろうか? 
 真澄は自分の手を一瞬持て余し、春の陽にかざした。
 もう若いとは言えない小さな手が陽の中にあった。
 薬指にわずかに食い込んでいる古い指輪はすっかり光沢を無くし、澄んだ春の光を穏やかに吸いこんでいるようにも見えた。

        *

 その夕方、風が出た。 
 真澄は小さな白い箱を抱え、強い風の中を近くの公園へむかってゆっくりと歩いてゆく。
 公園はいつものように恋人や家族連れでにぎわっており、スワンボートの浮かぶ大きな池の奥には、水性植物に囲まれた小さく静かな池がある。
 その小さな池には毎夏、真白い睡蓮が咲くのだが、今はまだ、無い。
 真澄は池にたどりつくと箱を耳もとで軽くカランと振り、縁石に膝をつきながら指先で押す様にして水に放った。
 箱はしばらく傾きながら浮いていたが、やがてあぶくを吐いて見えなくなった。
「ここにゴミを捨ててはだめですよ」
 背中越しに見知らぬ青年が、細くかん高い声でとがめた。
 振り向くと胸に大きな双眼鏡をぶら下げている。
 時折どこからか団体でやって来るバードウォッチャーのひとりらしい。
「ゴミではないの、子猫なの」
 真澄が言うと青年が面喰らって絶句した。
「大丈夫。ナマではなくて、骨だから」
 絶句したままの青年の顔をやわらかく見返しながら、真澄は立ち上がった。
「大丈夫よ、もう、ずいぶん古い骨だから」
 そう言い足すと、真澄は何か言いたげな青年からそっと離れた。
 見上げると、雲の吹き払われた中天は紺に、地に近い空は橙に染まりはじめており、風にはためきすぎるスカートの裾を押さえながら真澄は、その二層の夕空をしばらく見ていた。
 ここからどのくらいあるだろう? 
 千キロ、そんなところか。
 風の強い日にはいつも故郷の荒れた砂浜をぼんやりと思い出す。
 けれどいま、実際に帰る場所として、古い風景を思い浮かべている。
 いや、帰れるとは思わない。
 真澄は溜め息をつく。
 もうあそこには誰も居ないのだから。

 家に戻るとテレビをつけた。 
 砂漠の中の廃虚が画面いっぱいに写し出され、つづいて何かに抗議して自裁した男の顔が写し出された。
 世界はいつも真澄とは遠いところで動いている。
 反射的に音量を落としかけた時、何かの為に死ぬのは永遠に生きようとすることと同じですねと、若いコメンテーターが神経質に目をぱちぱちさせながら言うのが聞こえた。
 真澄はそんなふうに不安げに何かを言う人の声を聞き届けると音だけを消し、日の暮れてゆく部屋でマニキュアを入念に塗り直した。

      「トデチ」

 翌日、相変わらず強い風が吹き続け、空には強い青が広がった。
 真澄の家からは遠く離れた都心の公園の片隅。
 まばらに並ぶ青や緑のテントの入り口から軽く中を覗き、声をかけてまわっている青年がいる。
「斉藤さん、身体はどう?」
「ぜんぜん駄目」
 小さな青いテントで寝ていた眼鏡の男は答えるのもだるいという風に寝返った。
「今晩、炊き出しがありますから来て下さい。いつもの場所です。地図はここに印刷してありますから」
 青年がチラシを差し出す。
「知ってるよ」
 男はチラシを断ると再び眠りかけ、ふと思い出したように言った。
「それよりさ、清水さんの出産をテレビが撮りに来るらしいよ」
「え? なんでテレビが知ってるんですか?」
 青年が驚いてたずねる。
「菊地が呼んだんだって」
「あれ、またなの。菊地さん、まいったなあ」
「みかちゃん、謝礼もらえるって嬉しがってたよ」
 眼鏡の男が困った風に言う。
「そう。本人がいいんならいいんだけど。菊地さんて、最近、仕事やってる?」
「さあ、俺が知ってるわけないよ。でも、ここんとこ身ぎれいだ」
 そこへ大男が割って入る。
「俺さぁ、明日、トイレの裏で腐ってぱんぱんに膨らんでるかもしれないから、そんときはよろしく」
「何言ってるんですかヤマダさん」
 青年がすかさずチラシを渡す。
「また猫がトイレの裏んとこで死んでたんだ」
 ヤマダがチラシを受け取った手でヒラヒラと公衆トイレを指差す。
「なんですか、それ」
「どっかのガキがやったんだよ」
 斉藤が答える。
「保健所に言っておきます。ヤマダさんもごはん、食べに来て下さいよ」
「ここまで出前してよぅ」
 ヤマダが甘えた様に言う。
「三百人も来るんだから、来て手伝ってくださいよ」
 斉藤がヤマダの肩をポンとたたいた。
「うん、じゃあ、あとで一緒に行くか」
 ヤマダがしぶしぶ頷いた。
「今日のメニューはカレーです、待ってますよ」
 青年が朗らかに手を振る。
 その会話を少し離れたベンチで聞いていたひとりの痩せた若者が、あらぬ方向を見つめながら体をゆっくりと揺らしはじめる。
 始めはなにかひとしきり低くぶつぶつつぶやいていたのだが、やがておもむろに歌をうたいはじめた。
 その声質は柔らかく声量もあったが、出鱈目であった。
 噴水を挟んだ反対側のベンチで昼食の弁当を広げていた数人のOLたちが、その歌を聴き顔を見合わせてくすくすと笑いはじめる。
「このアホ音痴」
 斉藤が彼女らに聞こえるよう、大きな声で言った。
「あれ、みなさん、ぼくの歌を笑ってるんですか? なんで笑ってるんですか?」
 OLたちが沈黙した。
「ああ、恐くないよ、恐くないからね」
 斉藤が気怠そうに、とりなすように言う。
 そのとき、公園の中央にある噴水が青々と晴れ渡った空へ向け勢いよく立ち上がり、大きく風にあおられ、彼女たちの髪や肩に降りかかった。
 彼女たちは小さく叫びながら水滴を払い、ひろげていた弁当箱を鮮やかな手付きでハンカチに包むと、けらけらと笑いながら走り去った。
「笑うんですか、ぼくの歌はそんなに可笑しいですか」
 その、十代のようにも二十代のようにも見える青年が、声高に奇妙な独りごとを言いながら噴水の中にずんずんと入って行く。
「トデチ、風邪ひくよ」
 斉藤が年上らしく諌めた。
「いいんです、いいんです、僕の事ならどうぞ気にしないで」
 若者は服を一枚一枚脱ぎ、その一枚一枚を噴水の水で乱暴に洗い、最後にトランクスを絞ると、絞り終えたものを丁寧に噴水の淵に並べて干した。
「どうぞみなさん僕を笑ってください、笑ってください、笑いなさい」
 やがて吹き上がる噴水をシャワーがわりに、シャンプーで体を洗いはじめた。
 幼い子供を抱いた若い母親が公園を通りかかり、全身泡だらけの男がなにかつぶやきながら水を浴びているのに気付くと、噴水を大きく迂回して出て行った。

(つづく)

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