小説『睡蓮』第二回

      売れるものなどひとつも無い

 不動産屋が持って来た物件に、ある日、真澄が頷いた。
 梅雨に入る前に雨漏りのする家を出たかったのだ。
 早々に荷物をまとめ、そうして今さら身にしみたことがあった。
 何もかもみごとに古い。
 売れる物などひとつも無い。
 なんと良い事か。いっそまとめて捨てて行け。
 積み上げたダンボールの山に軽く寄りかかり、足を投げ出して座ると天井を眺めた。
 ああ星も無いと思い、そのまま目を閉じた。
 ふと隣家の住人が息をひそめてこちらの様子をうかがっている気配を感じた。
 それから昨夜のことを思った。
 遠慮がちに真澄を玄関先から呼ぶ低い声のことを。

 昨夜、聞き慣れた声にいつものように、はい、どうぞ、と、真澄は答えた。
 隣家の老人は、七十代半ばの、もの静かな人である。
 玄関に入るなり彼は積み上げられた荷物に驚き、引っ越すんですかと、静かに、けれど責めるように言った。
 はい、と真澄が答えると、老人は一瞬、思いがけないほど強い目で真澄を見た。
 真澄はその目の発する声から身をそらさぬよう立っていた。
 他に仕様がない。
 老人とのきっかけが何だったかは、もう忘れた。
 彼も独り暮らしだし、私も独りだからと、真澄は思う。
 無言のままガランとした部屋の真ん中にひと流れの布団を敷くと、いつものように彼を招き入れ、ゆるゆると痩せた身体をさすった。
 夜の底での彼との行為は、よく澄んでいるというわけでも、何かしら特別に美しいというわけでもない。
 老人の身体からはしんと冷えた、死のような匂いがする。
 真澄はその匂いが好きなのだった。
 何も悪いことはない。
 思えば昼の明るいうちに彼と会った事や交わした会話は数えるほどしか無かった。
 隣に住みながら互いの生活の事をほとんど知らず、夜の底では密やかで穏やかな時間が流れつづけた。
 ときおり、いっそ彼と暮らすとしたらどんなだろうと思うこともあった。
 年の差もあり、それは他人から見れば奇異なことなのかもしれないが、真澄はまるで気にならないのだった。
 互いに穏やかな愛情を抱いているのだから、静かな良い暮らしになるのではないだろうか。
 けれど三年前に死んだ夫のことを思うと、その思いは消える。
 夫への遠慮があるということではない。

 結婚して数年が経った頃、夫に年上の女が出来た。
 夫がその女を「愛人」と言わず「恋人」と言った、そのことを真澄は奇妙にはっきりと覚えている。
 ある日、いつものように会社に出掛けるのを玄関で見送る真澄に、
「申し訳ないが、今夜から僕はここへは帰れない」と言い、深々と頭を下げて出て行った。
 その日以来、真澄は夫のいないこの家で淡々と一人で生きてきたのであった。
 自分が唐突に放り出された事に驚き、呆然としながら、あのように深々と頭を下げて出て行った夫も、それをさせた年上の女も、なにか天晴れと思えた。
 指輪ははずさなかった。夫も強くは要求してこなかった。
 そのことで、あるいはまたいつか、戻ってくるつもりではないかと、思わされもした。
 夫と女は真澄の一方的な要求を受け入れ、生活費は驚く程几帳面に銀行口座に振り込まれて来た。
 それは真澄にとって十分すぎる額であり、そのことで夫の誠意を感じ続けてもいた。
 やがて進行の非常に早い癌に侵された夫が、真澄の知らぬうちに死んだ。
 知らされたときには葬儀はすでに済んでおり、女から分骨を希望する旨、わざわざ手紙が届いた。
 真澄はそんなことはどうでもよかった。
 あんな男の骨などみんなあなたにくれてやると便箋に書きかけ、けれどその女の手紙の非常に美しい文字に免じ、女のしたいようにさせることに決めた。

 夫の骨が遺影とともにこの家の片隅に置かれたその日、突然、真澄はそれまで自分の上をぶ厚く覆っていた暗雲が一斉に吹き払われ、青々と晴れ渡ってゆくのを視た。
 その不思議な瞬間のことは未だに鮮やかに思い出せる。
 ああこれで役目が終わったと、はじめて呼吸する赤ん坊の様に大きく息をし、安堵した。
 自分が負っていたのが一体何の役だったのかはわからない。
 わからないが、ともかくもう誰にも自分を殺させはしない、そう唐突に思ったのだった。
 そうだ、もう誰も私を殺さないのだ、と。

 隣家の老人との夜の交流は、夫が死んでのちしばらくしてはじまった。
 それはささやかな死のような、睡りのような安らぎであった。
 しかし真澄には、人と同じ時間を長く過ごすということが、もう、うまく想像出来ないのだった。

 夕暮れ、真澄は引っ越し業者に支払う金を銀行の口座から引き出すため、きつい坂をのぼりかけ、立ち止まった。その坂道の脇に、長く空き地のままになっている区画があり、毎年そうであるように雑草がやわらかく茂りはじめていた。
 草の陰で一匹の黒猫がまるで眠っているかのように死んでいるのが見えた。
 それは真澄が子供の頃に飼っていた黒猫によく似ていた。
 ああと思い、埋めてやろうと空き地に入り、真澄は素手で黒土を掘りはじめた。
 土を掘りながら、この坂を上り下りした長い長い年月を思った。
 夏は影の濃く落ちている片側を選び、冬は凍りついてしまう片側の日陰を避けながら、この坂を歩いた。
 その間、いったい自分は何をしただろう。
 夫は家におらず、もちろん子供もつくらず、親しい友人の一人も持たなかった。
 仕事には就いた事がない。経済的に働く必要がなかったということもあるが、真澄自身、外へ出て働こうという気がなかった。
 外の世界に興味が持てなかったのだ。
 真澄は、じっとひきこもるようにして家の中にいた。
 これまでの長い長い年月、そうして生きてきた。
 凄い事だ。
 それは、確実に、力のいる仕事だった。
 真澄は自分の目から突然ひとすじの涙が流れたことに驚いた。
 自分を見捨てて夫が出て行ったことも、時が経ち慣れてしまえばいわば人生のイベントのようなものであり、何処かで幸福に暮らしているのであろう夫と女の存在も、秘かな張り合いだとさえ、一時期思っていたのではないか。
 けれど、やがてそんな事態にもいつしかすっかり飽きてしまい、飽きているという事さえ当たり前になってゆき、心は果てしなく低いところに座り込み、日常的なうっすらとした絶望感から抜け出せないまま、どことはうまく指差しては言えないが、生半可に死んでしまっている自分の身体をずるずるとひきずりながら、この坂を昇り下りしてきたのだった。
 夏は影の濃く落ちている片側を選び、冬は凍りついてしまう片側の日陰を避けて。
 それは、確実に、力のいる仕事だった。
 愛着も興味もほとんど持てない世界を、ただ無為に生きてゆくための力が要ったと思う。

 夏の草の下で死んだ黒猫は静かに眠り始めた。
 真澄の指先のマニュキアが剥げ、少し血がにじんでいた。

(つづく)

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