小説『睡蓮』第三回

 そのまま銀行へは寄らず家に帰ると郵便受けに一通手紙が来ていた。
 従姉妹からであった。
 泥に汚れた手で封を切ると、改装オープンというチラシだけが出て来た。
 真澄はひどくがっかりした。
 がっかりしながら、それをすみずみまで読んだ。
 従姉妹が渋谷で若者相手の店をやっていることは知っていた。けれども開店した当初に一度行ったきり、ここしばらくは連絡も取らずに過ごしてきた。
 手を洗面所で熱心に洗い、チラシをテーブルに広げ、テレビの中の不断の早口女を眺めながら、いつものように一人分の食事を作り、やがてチラシを捨てようとして再び手に取ったとき、いや、行ってみよう、と、思い立った。
 このところ、ろくに外出もしていない。
 引っ越しのあとはしばらく新しい家の片付けに縛られるだろう。
 渋谷くらいすぐそこなのだ。行ってみても悪くない、と。

 真澄はダンボールにきつく詰め込んであった春物の服の中から、くっきりとした青の、けれど生地そのものは柔らかく適度に風を孕む気に入りのワンピースを引っ張りした。
 その、春らしいワンピースを古い木製のハンガーに掛け、カーテンレールに無造作にぶら下げて、寝た。

 
      完璧な花

 
 翌日、久しぶりに出た渋谷の奥で、真澄は果てしなく道に迷った。
 確かこの奇妙な程くねった路地を入って行くのだったと、曖昧な記憶をたどりたどりしつつ、若者にまじってどこまで歩いても、どこにもたどり着かない。
 改装というのだから、場所は変わっていないはずだし、見覚えのある道なのだから、確かにこの路地のはずなのだがと思い思い、彷徨いつづけ、どうしてもみつからない。
 同じところを何度も往復し、歩き疲れ、やがて迷路から抜け出せない実験用のハツカネズミになったようで、自分の馬鹿さ加減に溜め息をつくと、青いワンピースの裾をふわりとたくし上げ、細い階段の端に腰を下ろした。
「働くのは嫌いなの」
 いつだったか、何処でだったか、真澄が言うと、従姉妹は目を丸くしたのだった。
「生活は大丈夫なの?」
「贅沢さえしなければ、まったく大丈夫なの」
「ずっと家にいるつもり?」
「家にいるわよ」
「退屈でしょう?」
「嫌な仕事をする方がずっと退屈でしょう」
 従姉妹には真澄が解らないのだった。
 真澄自身にも自分が解らないのだ。当然である。
「真澄さん、贅沢はしていないかもしれないけれど自分を浪費してるわねぇ。そんなことしてると世間知らずのおばあさんになっちゃう」
「世間? 馬鹿馬鹿しい」
 そのとき思わず吐き捨てるようにそう言った自分の乱暴さに戸惑った。
 実際、世間など、いつだってどうでも良かったのだ。
 ただそれらを頭から馬鹿にし、拒む事を自分に許してしまえるほど、自信がなかった。
 いつもとりつくろい、逃げ腰で愛想笑いをし、かたくなに自閉し、内心ひどく傷つきながら、自分でもよく解らない不満でいっぱいだった。
 けれど今は違うのではないか、これから先は、恐らくもっと違うのではないだろうかと、慣れない渋谷の街を彷徨い、迷い飽きて階段の途中に腰を下ろしたまま、漠然と思う。
 何故そう思うのだろう?
 十七年、住み続けた家が取り壊されるからだろうか?

 そのとき、人ごみからふらりと彷徨い出て来たひとりの若者が、まったく迷いの無い足取りで真澄の方へ歩いて来ると、その汚れた手で真澄の肩を無遠慮にたたいた。
「僕、さっきまで、手足が無くなった夢を見ていたんです!」
 若者は突然、抑揚のつきすぎた大きな声でしゃべりはじめた。
 真澄は突然肩をたたかれた事に驚き、突然の奇妙な言葉に驚き、呆気にとられて彼の顔を見上げた。
「それで、僕、そこに座っているあなたの手と足がまぶしく輝いて見えて吃驚したんです。僕が夢で無くした手足が、あなたにくっついてしまったのかと思って!」
 頭が変なのだろうか?
 たぶん、そうだと真澄は思う。
 けれどその若者の少し狂った様な面差しと、底などまるで無いような眼差しの明るさは真澄の目をひいた。
 旅先で出会った真新しい風景に立ち止まるように真澄は彼を眺めた。
 なんだろうこの、両脚の張り切った感じはと、無遠慮に思う。
 鍛えたというわけでは無さそうな、けれど若いというだけでよく引き締まったこの脚は。
 真澄は急に勢いをつけて立ち上がると、自分の服の裾を片手でパンと払った。
 そのまま怒った様に青年から離れ、ほとんど歩いた事のない見知らぬ通り沿いに早足で歩き続け、従姉妹の新しい店を探した。
 そしてすっかり疲れ探し飽きると、通りすがりの店で缶入りワインを買い、通りを渡った場所にある公園のベンチに浅く腰をおろした。
 〈何故あれを私が産んだのでは無いのだろうか〉と再び思う。
 私はあんなものを産みたかったような気がする。
 いや、産みたいのじゃ無く、成りたかったのじゃないだろうか。
 そう、わたしはずっとああいうものに成りたかったような気がする。
 張り詰めた脚になりたかった? 
 なにを考えているのこの女は。
 大胆に組んだ膝の上に頬杖をつき、ワイン缶を片手に、噴水が空高く吹き上がるのを眺めながら笑う。
 張り詰めた脚になりたかったですって。
 いったい、この女は何を考えているの?

 やがてさきほどの青年がよろよろと追いついて来た。
「すみません、すみません。その凄く青い服は僕の目にかないました!」
 青年と目が合い、真澄は吹き出した。
 彼は見事に息を切らして其所に立っていた。
 真澄はようやくその無遠慮な若者と何か言葉を交わしてみようという気になり、しかし頭のおかしな若者に語りかけるべき適当な言葉が何処を探してもみつからないので名前を尋ねた。
「トデチです」
 青年は嬉々として答えた。
「へんな名前ね」
 真澄が言うと彼は人なつこく笑った。
「偉い現代詩人の詩集にあるんです『トデ・チ失踪』っていう詩が。僕、今、失踪中なんです」
 彼はそのことに大変自負を抱いているといったふうに応えた。
「そう。詩人って、まだこの世界にいるのねぇ」
 真澄が素っ気なく答えると、
「ああ、僕、間違えました、好きな詩人でした。あなたの名前はなんていうのですか?」
 たずねられて真澄は一瞬考え、まともな名前を答えるのもつまらないような気がして「睡蓮」と言った。
 すると、トデチがすこしのあいだ空を見あげ、やがて片方の掌を肩のあたりで一旦すぼめると、ふわりと前にやわらかく開くようにして一輪の〈花〉を生み出した。
 パントマイムまがいのその〈花〉は、真澄がこれまでに見てきた花の中で最も完璧な花となって、彼女の目の高さにあった。

 

(つづく)


  • 詩「トデ・チ失踪」/ 入沢康夫詩集『倖せ それとも不倖せ』(1955刊)より
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