小説『睡蓮』第四回

 真澄は暫くその〈花〉を眺めていた。 
「どうぞ」と、トデチが首を傾げた。
 どうやって受け取るべきなのだろう?
 青年の手は黒く汚れ、爪は傷んだのか栄養不良でか、全体に白っぽく変色している。
 その汚れた手の上に完璧な〈花〉は在るのだった。
 真澄がおずおずと手を伸ばし、彼の手に触れた瞬間、何かに強くはじかれた気がして手を引っ込めた。
「あの、痛かったですか?」
 トデチがたずねた。
 真澄はいいえと首を横に振った。
 けれどなにか、痛いものに触れたようでもあった。

「ハロー、どこから来たの」
 唐突にトデチが通りすがりの少年たちにむかって叫んだ。
「ハロー、きみたちどこから来たの」
 トデチの身体と彼の周囲の空気がよく通る声と共に微かに振動し、声に感応したように公園の中央の噴水がふたたび高くやわらかく立ち上がり、立ち上がった水が風に大きくあおられ水しぶきになった。
 その水しぶきの奥に、淡い虹がかかるのを真澄は見た。
 噴水と淡い虹の背後には濃い青空があり、空の青は真澄の中になにか拭いようのない強い印象を残した。
 真澄がふと我にかえるともう、トデチに呼びかけられた少年達は怯えて走り去ったあとであった。
 そのときはじめて、いくつかの小さなテントが真澄の目に入った。

          「オレンジ色のテント」

 トデチの手から産み出された〈花〉を視た真澄はひとり、公園から一番近いデパートの売り場を目指した。
 そこで彼女は、公園での生活に必要であろうと思われる物を手当りしだいに買いあつめた。
 パウダールームの沈みすぎるソファで、それら買い集めたものを真新しい真っ白なスーツケースに詰め込むと、一人用のテントをさらにその上に積み重ね、公園へ戻った。
 大きな荷物を重そうにひきずりながら戻って来た彼女を、トデチが口を半開きにして出迎え、周囲の住人達はそれぞれのテントの中から物珍し気に眺めた。

 真澄は自分をじっと見守っているその公園の住人たちに、はたして挨拶をしてまわるべきか否か少し迷い、まだそんなふうに世間に気を使っている自分をつくづく馬鹿馬鹿しく思った。
「ねえ、あなたのお家の横に私のテントを立てるけれど、かまわない?」
 口をぼんやりあけて見ていたトデチに向かって〈睡蓮〉がにこやかにたずねた。
 彼女の勢いにやや怖じ気付いたようにではあるが、彼がこくりと頷いたので、彼女は安堵した。
 真新しいオレンジ色のテントは、青年トデチのダンボールハウスの横にぴったりと寄り添うように張られた。
 
 やがて日の暮れはじめた頃、デパートの地下で買ってきたサンドイッチと缶コーヒーで、〈睡蓮〉は夕食をとった。
 屋外でのはじめての食事であった。
 彼女はテントの組み立てを手伝ってくれたトデチに差し入れをしたいと思った。
 ダンボールハウスをそっと覗くと、彼は腹這いになり、小さなノートに短い鉛筆でなにやら書き留めているところであった。
「日記?」
 〈睡蓮〉がたずねると、
「いいえ詩です」と、至極得意そうに答えた。
「あら素敵。これ、手伝ってくれたお礼」と、彼女が缶入りドロップを差し出すと、トデチは缶を耳のそばで大げさに振り、大口をあけてげらげら笑った。

 その夜〈睡蓮〉は、自分の小さなテントの中に敷き詰めた毛布の上に着替えもしないまま横たわると、ようやく自分の行いの不可解さに溜め息をついた。
 深く長い溜め息であったので、夜の闇と土の匂いと排気ガスの臭い、真新しいテントの臭いがないまぜになり、肺の中に充満した。 
 彼女は羊を数えながら、隣家のあの老人の薄い気配と埃っぽい死の匂いを、遠い夢のように思い出した。
 それから夫の若い頃の顔をふと思い出した。
 長い時間が経った。 
 隣のダンボールハウスに身体を横たえ、この奇妙な新参者のことをじっと考えている若者の、やや重い気配を感じながら、やがて〈睡蓮〉は柔らかな眠りに落ちた。

(つづく)

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