ヘンプシープの衣    第3話 素因数分解と編み物

 顔を上げると、先生と目があって、マリスはたじろいた。教室を見回すと、ほとんどの生徒が下を向いて、ノートに鉛筆を走らせている。検算をすることにして、マリスは再びノートに目を落とす。素因数分解は以前に習ったことがある。だから他の生徒より、早く問題を解くことができたのだ、と自分を納得させながら、マリスは数字を目で追いかける。
 不意にノートが机の上から取り上げられ、ふり仰ぐと傍らに先生が立っていた。先生はしばらく無言でノートを眺めた後、おもむろに言った。
「素数を順に言ってみて。2、3、の次から。はい」
 戸惑いつつも、マリスは口を開く。
「5、7、11、13、17、19、23、・・・29、31、えーと、37、41、43、・・・47、53、59、61、・・・67、71、73、79、・・・」
「素数が頭に入っているんだね。じゃあ、前に出て素数を板書して」
 うながされてマリスは立ち上がり、黒板の前に立つ。白墨を持って、2、3、5と書き出したところで、これでは小さくて後ろの席の生徒が見えないとはっとして、黒板消しで数字を消す。白く汚れた黒板に、今度は腕を大きく動かして、なるたけ大きい字で素数を書いていく。47まで書き出したところで、先生の声がかかった。
「素数はそこまで。その下に326の素因数分解をしてみて」
マリスは小さい声で「はい」と応え、板書を続ける。
326は2かける163
163が、3と7で割れないことを頭の中で確かめてから、マリスは先生を振り返った。かすかに先生は頷いて「じゃあ次は216」と言った。マリスは黒板に向き直って板書する。
216は2の3乗かける3の3乗
「はい、正解。席に戻って」
 頷いて白墨を置き、マリスが席に着くと、代わって先生が教壇に立った。
「素因数分解はこのように素数で分解していくこと。偶数だったら必ず2で割れる、半分に分けられるから割ってやる。そうやって小さく分けていけばいくほど、その数字がどう成り立っているのか見えてくる。2で割れなくなったら、次は3、あるいは7で割れないか試みてやる」
 先生は、黒板を指していた手をおろし、教室をぐるりと見渡した。
「数学は世界の成り立ちを数字で解き明かそうとする学問だ。何の役にも立たないと思う人間も多いだろうし、実際、役には立たないのかもしれない。でも、数字で世の中を解き明かす方法を身につけていた方が、人生に面白味は増すんだ。視野が広がるというかね。ある意味、近視眼的にもなるけどね」
 自嘲して先生は、教卓の上の教科書を繰った。
「というわけで、宿題。教科書12~14頁にある問いを全問、次の授業までに」
 えーという悲鳴が、あちこちからあがった。
「わからない生徒は、放課後、自習室に。みてあげるから」
 言葉が終わると頭上からチャイムが響いた。終業のチャイムだった。

   *

(学院になんて、きたくなかった)
 宿題の素因数分解を解き終え、マリスは机の上に麻糸を出して転がす。
 放課後の寮は、案外静かだ。自室にいるよりも、談話室や自習室で人と過ごすことを好む生徒がほとんどで、マリスのように自室に一人で放課後の時間を過ごす生徒は少数だ。
 机上の麻糸を両の掌の間でいったりきたりさせながら、マリスは考える。
(私は故国の北東草原を出たくはなかった。ずっとあの場所で暮らしたかった。学院に来て、友達もできて、楽しく過ごせているけれど、やはり私は北東草原に帰りたい)
 マリスの耳に父の声がよみがえる。
「駄目だよ、マリス。もっとしっかり広い世界を見てきなさい。自分の生き方を決めつけてはいけないよ。学院に入って、いろんな人と接して、世の中を見て、それから決めなさい。どこで何をして生きていくのか」
 諭すように言われて、マリスは学院に入学することを決めた。そうでなければ、今もあのまま北東草原で風に吹かれて暮らしていた、近い将来に婿をとって、領主の一族として家畜を飼い亜麻を育てて暮らしていた。
(それでも、よかった気がするのに)
 マリスは執拗に麻糸を転がす。
「卒業するまでに決めるんだよ。どこで生きていくのか、どうやって生きていくのか。卒業までに、自分の衣を一枚編み上げておいで。卒業して、いったん北東草原に帰ってきたら、その時に披露目の儀式をしよう。その時にまとう衣を自分で編んでおいで。どこへだって行けるし、どうやってだって生きていけるけど、自分で選ぶんだ。身につける物も自分で自分にあつらえるんだよ。そうすれば成人の儀にもなるからね」
 父の声を頭の中で響かせながら、どうしてそんなことを言われなければならなかったのか、マリスにはわからない。北東草原で暮らし続けることに、どんな咎があったというのだろう。
いや、本当はわかっていた。
「もっとしっかり人と関わりなさい。自分の言葉で自分の意見を言いなさい」
 母の口癖がよみがえる。引っ込み思案ですぐに口ごもるマリスのことが、母は気に入らなかったのだ。
 放っておいてくれたらいいのに。
 誰も私を気にかけたりしなくていいのに。
 マリスはそんな風に願ってしまう。

 ぎゅっと麻糸を掌で握る。ちくちくゴツゴツとした手触り。
 この麻を裾飾りにしよう。そうだ、漁網の編み方がいい。麻は重くてごついから、スカートの裾が広がらずにすとんと落ちるだろう。漁網のように編めば重くなりすぎずに風も通る。
maris-sekai_wo_amu
 不意の思いつきに、マリスはわくわくした。
 麻で3段ほど編んだら、そこから先は亜麻糸でメリヤス編みをしよう。麻の1目に亜麻を3目、いや7目はとれるかもしれない。素数の増やし目をしていくのがいい。きっと優美な曲線になる。
 マリスは麻紐を竹の定規にからげて編んでみる。長く格子の列を作っていく。
 日が落ちてしまわぬうちに、ぐるりと一周編みあげたい。
 1,2,3と呟きながら、マリスは手を動かした。

                      【文:榎田純子 / 挿絵:もうりひとみ】

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